アフリカとの出会い52

 
 ケニア式復活祭   

  アフリカンコネクション 竹田悦子

  4月のケニアは、キリスト教徒(ローマ・カトリック、プロテスタント、その他)にとっては重要な宗教的な行事のある月です。

 それは、「復活祭」です。十字架にかけられたイエス・キリストが3日後に、復活したことをお祝いする日です。ケニアのキリスト教は、最初はヨーロッパの冒険者たちによってもたらされました。その後植民地時代、宗主国のイギリスから宣教師が派遣され、彼らの布教の成果で今や伝統宗教に取って代わり国民の7割とも言われる国教になっています。キリスト教会はもちろん、キリスト教に基づいたカリキュラムの小学校・高等学校はいたるところにあります。おそらくイエスやマリア様を知らない人はケニアにはいないでしょう。

 私がケニアにいた2001年4月の復活祭は、こんな風に始まりました。

 朝10時頃、首都ナイロビにあるHoly Family Cathedral Basilicaというカトリックの教会に友人と一緒に行きました。この教会の建物はとても大きくて、日頃から日曜のミサの参列者も多く、ミサは数回に分けて開催されています。政治家や有名人の参加も多く、私の滞在時にはケニアの大統領選挙戦があったのですが、その時の大臣有力候補なども現れて、家族と一緒に心静かに賛美歌を歌う姿が印象的でした。

 さて、到着してまず、教会のテーブルに置いてある「やしの葉」を手に取ります。それを2枚取って、手のひらサイズの十字架を作ります。用意が出来たら、それを持って、旗のように振りながら、街中を練り歩く「イースターパレード」がスタートです。1000人以上の人が賛美歌を歌いながら、ナイロビの町をぞろぞろと歩きます。老若男女、歌に心を込めて歩きます。ナイロビには、他にイスラム教徒や、ヒンズー教徒、伝統宗教を信じる人達もおり、その意味でナイロビはいろいろな宗教が混在する町でもあるのです。沿道の人は、手を振ってその行列を眺めます。

 ナイロビの町を1時間くらい歩き、教会に戻り復活祭のミサが始まります。この教会はカトリック教会なので、世界中どの国のミサに行っても、式次第は同じで、どの賛美歌を歌い、どの聖書の節を読むかは決まっています。厳粛なムードの中、英語でミサが行われます。1時間ほどのミサを終え外に出ると、すでに次のミサの出席者が大勢待っています。

その後は、家族や親しい友人たちが集まり、「復活祭」を祝う昼食の始まりです。

 私は、近所の親しい家族の家へお邪魔しました。私が到着すると、女性たちが台所で野菜を切ったり、炒めたりと忙しい様子ですが、おしゃべりと笑い声は絶えません。男性は、外で、メイン食材のオスの七面鳥を解体中です。絞めるときに「キュウ」という声がしました。細いナイフ一本で、器用にさばいていきます。あっという間にきれいな塊となって、炭焼きにされました。煙がもくもくと立ち上がり、香ばしく肉の焼ける匂いがしてきます。

 復活祭のパーティ料理の担当は女性たちですが、沢山の野菜と肉の下準備に2~3時間もかかりました。そんな訳で「昼食」のはずが、用意が出来上がる頃には、「夕食」の時間になっていました。でもこれはよくあることなので、私は家を出る前に昼食を取ってから出かけてきました。

 お客さんが次々にやって来ますが、後で聞いてみると、実は誰も招いてもいなく、しかも誰も招かれてもいませんでした。どうも「招かれた」のは私だけだったみたいです。親しい人同士、自発的に集まり、自発的に用意しているお祝いの宴だったのです。道理で始まる時間も決まってなければ、終わる時間もありません。

 どうせ休日、慌てることはありません。7時ごろになり辺りが暗くなってきました。灯油ランプを幾つか灯して、家の主人の奥さんのお祈りが始まります。その後は、飲んで、食べて、おしゃべりして、イエスの復活をお祝いします。人が出たり入ったりで、気が付けば50名くらい参加しています。しかも薄暗い灯りなので、私が誰としゃべったかは声による記憶が頼りです。

 私が外国の暮らしで知った「復活祭」のお祝いは、イースターエッグを作って隠して探したり、ウサギの絵を描いて飾ったりということでした。ケニアでは、ミサの後、人が集まってご馳走を食べる。そしてその中心に「祈り」がありました。イースターを飾るものは、何もないといえるかも知れません。しかし、こうして日々「感謝して過ごすこと忘れない心」を、そしてそれをみんなで「共有する心」を、ケニアのグローバル化する経済の中にあっても、大切に思う社会であることが私にはとても好ましいものに感じられました。


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